【哲学的ゾンビ】とは何か?わかりやすく解説

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あなたはこんな想像をしたことありますか?

「ひょっとすると痛みや悲しみ、喜びや楽しさを感じているのは自分だけで、周りの人間は何も感じずただ自動的に反応して動いているだけなのでは?」

哲学的ゾンビとは

「物理的、科学的、電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、意識(クオリア)を全く持っていない人間」

これを【哲学的ゾンビ】と言います。

この哲学的ゾンビというのは、物質的には人間と全く同じですから、もちろん脳や神経も持っています。
だからゾンビに赤いものを見せれば「赤を認識する部分が反応を示し、

「これは何色ですか?」
と聞けば
赤色です!」
と答えます。
そのため普通の人間との区別はつかないのです。しかし、彼は「赤(クオリア)」を見ていないのです。

これは人間だけに言えることではなくて、犬であっても、木であっても、石ころであっても自分以外の他の者がどんな主観体験を持っているかということは原理的に知ることができないのです。
つまり、あなたの周りにいる彼も彼女も友達も家族も、あなた以外の周りの人間は何も感じていない【哲学的ゾンビ】なのかもしれません。

実際この哲学的ゾンビの存在の有無は、議論になることはありません。その理由はいることもいないことも証明することができないからです。

では何のために哲学的ゾンビという概念が生まれたのでしょうか?

物理主義の主張

この疑問の前に前提条件としてはっきりさておきましょう。

物理主義とは、

この世のあらゆるものは物理法則で説明できるとする考え方です。

私たちが物理主義の立場に立つと

「人間の意識や心によって、物理法則が変化することはあり得ない」と考えます。
これは、誰かが心の中で「ボールよ曲がれ!」と念じたところでボールの軌道が曲がったりしない、というごく当たり前な話です。

物理主義の立場では、今起きている意識や主観的体験というのは、脳という物理的な機械の動きに付随して発生しているにすぎません。その層化に脳という物理的機械の構造をいじってしまえば、僕の意識はその通りに影響されます。

では、意識や主観的体験というものが、単に脳という機械に付随するものであり、物理法則と一切関係しないのであれば当然、意識や主観的体験が、脳という物理的機械の動きに影響を与えることはないのです。
そうすると少しだけ奇妙な疑問が出てきます。

意識や主観的体験が、脳に一切の影響を及ぼさないのであれば、脳は意識や主観的体験があろうがなかろうが、機械的に淡々と物理法則に従って動作するだけなのですから、脳に意識や主観的体験軟化なかったとしても全く問題なく、不自由なく人間生活ができるということになります。
要するに意識とか主観的体験なんて全然必要なかったという結論になってしまうのです。

しかし、どんなに意識や主観的体験が不自然な存在だとしても実際には今、私は意識を持っていて、主観的体験によって世界を見ています。
これは一体どうしてでしょうか?
一体、どうして帰納的には、まったく必要ないものがわざわざ発生しているのでしょうか?

ゾンビ論法

もし逆に意識や主観的体験も、機能的に必要だから存在しているとするのであれば、「我々は、意識や主観的体験が、脳という物理的機械の動作の決定に何らかの影響を与えている」ということを受け入れ、物理主義の考えを改めなくてはなりません。

このように、この哲学的ゾンビは、物理主義の批判をするための説明に用いられました。
その物理主義の批判というのがゾンビ論法というデイヴィッド・チャーマーズが1990年代に用いた論法です。

「ゾンビ論法」
我々の世界には意識体験がある。
物理的には我々の世界と同一でありながら、我々の世界の意識に関する肯定的な事実が成り立たない、論理的に可能な世界が存在する。
したがって意識に関する事実は、物理的事実とはまた別の、われわれの世界に関する更なる事実である。
ゆえに唯物論は偽である。

ディビット・チャーマーズは、この哲学的ゾンビというたとえを用いて、意識、主観的体験における新しい哲学的課題を提示し、当時の人々に大きな衝撃を与えたのでした。